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      <title>京都の観光旅行(地図)</title>
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      <description>京都の観光旅行をgoogleの地図とflicerとwikiペディアで！</description>
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      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Mon, 23 Jul 2007 12:36:18 +0900</lastBuildDate>

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         <title>慈照寺（銀閣寺）</title>
         <description><![CDATA[<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.026876&ln=135.79826&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br />
慈照寺（じしょうじ）<br /><br />京都府京都市左京区にあり、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院（相国寺の境外塔頭）。通称銀閣寺（ぎんかくじ）、山号は東山（とうざん）。開基（創立者）は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。（夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。）<br /><br />

足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称することから、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。<br /><br />

なお、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿が実際に金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。<br /><br />
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         <pubDate>Mon, 23 Jul 2007 12:36:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>真正極楽寺（しんしょうごくらくじ）真如堂（しんにょどう）</title>
         <description><![CDATA[真正極楽寺（しんしょうごくらくじ）真如堂（しんにょどう）<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.021869&ln=135.78937&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br />
真正極楽寺（しんしょうごくらくじ）は、通称真如堂（しんにょどう）と呼ばれる。山号は鈴聲山（れいしょうざん）。本尊は阿弥陀如来、開基（創立者）は戒算である。<br /><br />
永観2年(984年)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子（一条天皇生母）の離宮に安置したのが始まりである。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利の歴代将軍や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)現在の場所に再建された。<br /><br />]]></description>
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         <pubDate>Wed, 11 Jul 2007 19:10:36 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>永観堂(禅林寺)</title>
         <description><![CDATA[永観堂(禅林寺)<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.014206&ln=135.79456&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div>
<br /><br /><br />
禅林寺（ぜんりんじ）<br /><br />
京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂（えいかんどう）の名で知られる。山号を聖衆来迎山（しょうじゅらいごうさん）、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基（創立者）は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院（学問研究所）の一つでもあり、古くから学問（論義）が盛んである。<br /><br />]]></description>
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         <pubDate>Mon, 09 Jul 2007 02:32:08 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>南禅寺</title>
         <description><![CDATA[南禅寺<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.011334&ln=135.79456&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
南禅寺 （なんぜんじ）<br /><br />京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは「太平興国南禅禅寺（たいへいこうこくなんぜんぜんじ）」と号する。本尊は釈迦如来、開基（創立者）は亀山法皇、開山（初代住職）は無関普門（大明国師）である。皇室の発願になる禅寺としては日本で最初のものである。京都五山の上位（五山第一位の天龍寺よりさらに上に位置する）の別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇った。
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         <pubDate>Sat, 07 Jul 2007 03:48:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>平安神宮</title>
         <description><![CDATA[平安神宮<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.01622&ln=135.78251&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
平安神宮<br /><br />
1895年（明治28年）に平安遷都1100年を記念して平安京遷都当時の天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建された。皇紀2600年にあたる1940年（昭和15年）に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。<br /><br />

平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。<br /><br />


施設<br />
平安時代の応天門を模した、大きく赤く光る朱色の正面の門が特徴である。また、参道の鳥居は24.2mの高さがある。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模している。<br /><br />

敷地面積は約10000坪の日本庭園である「神苑」を含め、約20000坪ほどある。神苑は明治から昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛（植治）が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定されている。神苑にはカワセミや大鷹などの人里には珍しい鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ、本州にはここでしか生存が確認されていない南石亀などが生息している。<br /><br />


祭事<br />
創建を記念して、平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになった。<br /><br />

2003年の秋からは、平安神宮及び岡崎地域一帯にて、関西の有志の学生達による京都学生祭典が開催されている。この京都学生祭典は毎年10万人以上の観客動員数を記録しており、京都を代表する大きな祭の一つとなっている。<br /><br />
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         <pubDate>Tue, 03 Jul 2007 17:29:33 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>知恩院</title>
         <description><![CDATA[知恩院<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.005633&ln=135.78386&z=-1&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
知恩院（ちおんいん）<br /><br />京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山（かちょうざん）。知恩院は通称で、正しくは華頂山大谷寺知恩教院。本尊は法然上人像（本堂）および阿弥陀如来（阿弥陀堂）、開基（創立者）は法然である。<br /><br />

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「知恩院（チヨイン）さん」と呼ばれている。<br /><br />

四条天皇から下賜された寺号は「華頂山知恩教院大谷寺」（かちょうざんちおんきょういんおおたにでら）という長いものであるが、この名称は、寺の歴史を説明する時などを除いて通常は使われておらず、法人としての寺院名も「宗教法人知恩院」であることから、「知恩院」とする。<br /><br />
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         <pubDate>Mon, 02 Jul 2007 02:42:59 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>八坂神社</title>
         <description><![CDATA[八坂神社<br /><br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.003761&ln=135.77893&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
八坂神社（やさかじんじゃ）<br /><br />
京都府京都市東山区祇園町にある神社である。かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれる。
<br /><br />
7月の祇園祭で知られ、ほかに特殊神事として白朮（をけら）祭がある。日本全国に約2300社ある、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする神社の総本社である。旧社格は官幣大社。
<br /><br />
明治元年の神仏分離令（廃仏毀釈運動）により、元々「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれていたのが「八坂神社」と改められた。<br /><br />
社伝によれば、斉明天皇2年（656年）、高句麗より来日した調進副使・伊利之使主（いりしおみ）が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。他にも各種の記録がある。<br /><br />

貞観18年（876年）に僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺（別名 祇園寺）と称した 
延長4年（926年）、ある修行僧が祇園天神堂を建てた 
承平4年（934年）に祇園感神院を建てた <br /><br />
創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王（およびそれに習合した素戔嗚尊）であったことは確実である。古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。<br /><br />

祇園祭は、貞観11年（869年）に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年（970年）ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。<br /><br />

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         <pubDate>Fri, 29 Jun 2007 10:08:03 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>清水寺</title>
         <description><![CDATA[清水寺<br /><br /><div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=34.994948&ln=135.78484&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
清水寺（きよみずでら）<br /><br />京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基（創立者）は延鎮上人である。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。<br /><br />

清水寺は、金閣寺（鹿苑寺）、嵐山などと並ぶ、京都でも指折りの観光名所で、季節を問わず多くの参詣人で賑わっている。また、石山寺（滋賀県大津市）、長谷寺（奈良県桜井市）などと並び、日本でも有数の観音霊場として古くから知られ、平安時代以来、文学作品などにもたびたび登場する著名寺院である。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり、古都京都の文化財の一部として世界遺産にも登録されている。 
<br /><br />
広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。清水寺の縁起はさまざまな伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次のとおりである。宝亀9年（778年）、大和国子島寺（奈良県高市郡高取町に現存）の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねてたどりついたのが、今、清水寺の建つ音羽山であった。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士（ぎょうえいこじ）という修行者（観音の化身ともいう）がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。<br /><br />

その2年後の宝亀11年（780年）、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂（758‐811）は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰ることができた。延暦17年（798年）、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという 以上の話には細かい点については異伝もある。創建の年については宝亀11年（[780年]）でなく延暦17年（798年）とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平城京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もある。これらの話は、根拠のない伝説として無視すべきではなく、何らかの史実をもとにしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると思われる。<br /><br />

延暦24年（805年）に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年（810年）、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことは史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。<br /><br />

清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『梁塵秘抄』などの古典文学に言及されている。『枕草子』は、「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安時代、既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。近世には浄瑠璃、歌舞伎などにも清水寺が登場する。<br /><br />

清水寺は、京都では珍しい法相宗（南都六宗の1つ）寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび火災にあっており、現在の本堂は寛永10年（1633年）、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂も多くはこの年に再建されている。<br /><br />
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         <pubDate>Thu, 28 Jun 2007 16:02:28 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>本能寺</title>
         <description><![CDATA[本能寺<br /><br />
地図<br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.010303&ln=135.76809&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
本能寺（ほんのうじ）<br /><br />
法華宗本門流の寺院。本尊は日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅本尊とする。織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。

本能寺は、当初は本応寺という寺号で、室町時代の1415年（応永22年）京都油小路高辻と五条坊門の間（現在の仏光寺のあたり）に日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。1429年（永享元年）、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、1433年（永享5年）如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を本能寺と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方4町（約4万m²）の敷地を有し、また多くの子院も有していたが、1536年（天文5年）比叡山との教義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。<br /><br />

 
信長廟その後、1547年（天文16年）-1548年（天文17年）のころ帰洛し、伏見宮第5代那高親王の子日承上人が入寺し、第8世を称し四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域（旧本能小学校のあたり）に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。しかし、1582年6月21日（天正10年6月2日）日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた織田信長が、明智光秀の謀反により自刃した事件（いわゆる本能寺の変）により堂宇を焼失した。
<br /><br />

 
本能寺跡現在の寺域（中京区寺町御池下ル）は1587年（天正15年）豊臣秀吉の命で移転されたものである。伽藍の再建は1592年（天正20年）で現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。<br /><br />

江戸時代初期の1615年（元和元年）に幕府から朱印寺領40石を与えられた。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深く、江戸時代には末寺92を数える大寺院であった。しかし、1788年（天明8年1月）の天明の大火、1864年（元治元年7月）の禁門の変（蛤御門の変）により堂宇を焼失している。<br /><br />

旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。<br /><br />


左の写真のとおり、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』（火）が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。
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         <pubDate>Mon, 25 Jun 2007 12:18:13 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>北野天満宮</title>
         <description><![CDATA[北野天満宮<br /><br />地図<br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.030891&ln=135.73555&z=0&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />
北野天満宮（きたのてんまんぐう）<br /><br />京都市上京区にある神社である。通称、天神さん・北野さん。旧社格は官幣中社。京都市民からは「てんじんさん」の愛称で呼ばれる。
<br /><br />
菅原道真を主祭神とし、相殿に中将殿（道真の長子・高視）と吉祥女（道真の正室）を祀る。毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。特に学問の神として知られ、多くの受験生らの信仰を集めている。京都市が大学の町であることもあってか、掲げられている絵馬には、大学受験合格を祈願するものが多い。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっており、当社から全国各地に勧請が行われている。<br /><br /><br />
沿革
延喜3年（903年）、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、歿後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年（942年）、右京七条に住む多治比文子（たじひのあやこ）という少女に託宣があり、それに基づいて天暦元年6月9日（947年）、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔（時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる）が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。<br /><br />

永延元年（987年）に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年（993年）には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。<br /><br />

中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年（1444年）に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する（文安の麹騒動）。<br /><br />

天正15年10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。

江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。<br /><br />

1871年（明治4年）に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名させられる。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。<br /><br />

1912年には、京都駅との間で、京都市電堀川線（通称北野線）が走るようになった。また1958年までは、神社の前まで京福電気鉄道北野線が乗り入れていたが、京都市電今出川線建設のため、北野～白梅町間の路線を市電に譲る形で白梅町（その時北野白梅町駅と改名）止まりとなった。

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         <pubDate>Sat, 23 Jun 2007 19:30:09 +0900</pubDate>
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         <title>二条城</title>
         <description><![CDATA[二条城<br /><br />
地図<br />

<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.014118&ln=135.74892&z=1&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div><br /><br /><br />

二条城（にじょうじょう）<br /><br />

京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城。京都市街の中にある平城で、京都観光の定番となっている。城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに、1994年にはユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録された。<br /><br />
二条城は、かつて平安京の大内裏であった場所の南東端と、その南にあった禁園（天皇の庭園）である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが、厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が、徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分のみであった。

縄張の形式は、本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は、約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りは外堀が作られている。二の丸は、本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている（この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある）。家康による創建時は、現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの第一防御線として想定されていた可能性はある。

二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して、約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた磁石を普請の際に用いたためである。

将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。<br /><br />
 
東大手門。奥に二の丸御殿を囲む築地塀が見える。外部との出入り口としての城門は、東西南北に1つずつある。正門は、堀川通に面した東大手門である。南門は大正4年に新たに作られたもので、この南門と西門は外堀を渡る橋が撤去されており使用されていない。また、北大手門も普段は閉鎖されている。この他に城内には、5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。<br /><br />



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         <pubDate>Wed, 20 Jun 2007 14:43:58 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>京都御所（京都御苑）</title>
         <description><![CDATA[京都御所（京都御苑）<br /><br />
地図<br />
<div align="center"><iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.022888&ln=135.76429&z=2&k=2" width="500px" height="500px"></iframe></div>
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京都御所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』
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京都御所（きょうとごしょ）は、京都府京都市上京区にある御所。もともと平安京での正式な皇居は平安京の中央部付近に位置する内裏であったが、戦乱などによって荒廃したために里内裏に移った。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、のちに北朝と呼ばれることになる持明院統の天皇家が歴代居住した御所であった。ちなみに南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇家の御所は二条富小路内裏であった。現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充されたものである。<br /><br />

江戸行幸の延長で天皇が東京へ移った後も、第二次世界大戦前まで即位は京都御所で行われると皇室典範に定められており、大正天皇と昭和天皇は京都御所で即位の儀式を行った。天皇の即位は京都御所で行うという皇室典範の条項は第二次大戦後削除された。その結果、今上天皇の即位は東京で行われた。また、天皇の在所を示す高御座は、京都御所にあり、それゆえ現在も京都御所こそ皇居であり、東京の皇居は、行幸先の「吹上行宮」とする説もある。明治天皇が東京に移った際は、遷都ではなく奠都（てんと）の語を用いたとして、京都から東京への首都移転の正統性に異を唱える主張もある。<br /><br />

隣接して京都大宮御所、仙洞御所があり、また北隣の今出川通を挟んで同志社大学と同志社女子大学（両校とも今出川キャンパス）が位置する。現在は京都御所、京都大宮御所と仙洞御所を宮内庁が管理し、その周囲の国民公園である京都御苑を環境省が管理している。<br /><br />

普段は申し込みすることで参観できるほか、春と秋には一般公開される。

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         <pubDate>Mon, 18 Jun 2007 15:45:14 +0900</pubDate>
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         <title>グーグルアースで京都巡り</title>
         <description><![CDATA[<div align="center"><object width="425" height="350"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/pG7iI1j6ppc"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/pG7iI1j6ppc" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="350"></embed></object></div>
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グーグルアースで京都巡りしてみました。<br />

色々な寺院をまわっています。
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ちょっとした旅行気分を味わってみてください。<br /><br /><br />
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         <pubDate>Sat, 16 Jun 2007 02:17:26 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>三十三間堂</title>
         <description><![CDATA[三十三間堂地図<br /><br />
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<a href="http://xn--1lqp7dk8g7gq08djl1czbcr4w.oxrz.com/image/33genndo.kmz">グーグルアース東寺kmzファイルをダウンロード</a><br /><br />
Flickrで三十三間堂観光<br /><br />
<div align="center"><a href="http://www.flickr.com/photos/joshua/429774217/"><img  alt="Flickrで三十三間堂観光" src="http://farm1.static.flickr.com/162/429774217_defd5cf69d_m.jpg" /></a>
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<a href="http://www.flickr.com/photos/cathykid/172073075/"><img alt="Flickrで三十三間堂観光" src="http://farm1.static.flickr.com/74/172073075_0ab73978d4_m.jpg" /></a></div><br /><br /><br />
三十三間堂<br />
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br /><br />
三十三間堂（さんじゅうさんげんどう）は京都市東山区にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂（れんげおういんほんどう）。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音である。<br /><br />
この地には、後白河上皇の離宮法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。上皇が平清盛に命じて旧暦の長寛2年12月17日（1165年1月30日）に完成したという。当時は五重塔なども建つ本格的な寺院だったが、建長元年（1249）の火災で焼失。文永3年（1266）に本堂のみが再建されている。現在残る堂がそれである。<br /><br />

「三十三間堂」の名称は、本堂の内陣の柱間が33あることによる。ここで言う「間」（けん）は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間は12尺で、今日の間では2間に相当する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。<br /><br />

江戸時代には各藩の弓術家により本堂の軒下（長さ約120m）で矢を射る「通し矢」の舞台となった。その伝統に因み、現在は毎年1月15日に最も近い日曜日に、弓道をたしなむ新成人が振袖に袴を着け、本堂西側の射程60mの射場で矢を射る「大的全国大会」が行われ、一般的には「通し矢」と呼ばれている。60mは一般の弓道競技の「遠的」の射程であり、この大会の射法も遠的と同様である。<br /><br /><br />


伽藍<br /><br />
 
本堂（南面）本堂（国宝） - 鎌倉時代、入母屋造 本瓦葺 <br />
太閤塀（重要文化財） - 本瓦葺、豊臣秀吉の寄進による <br />
南大門（重要文化財） - 切妻造、本瓦葺、豊臣秀頼が建立 <br /><br />

文化財<br /><br />

国宝<br />
本堂 <br />
木造千手観音坐像（附:木造天蓋） - 堂内中央に安置する本尊像。像高335cm。湛慶晩年の建長6年（1254年）の作 <br /><br />
木造風神・雷神像 - 鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。 <br /><br />
木造二十八部衆立像 - 鎌倉復興期の作。千体千手観音像の手前に横一列に立つ（28躯のうち四天王像4躯は本尊の周囲に立つ）。二十八部衆は千手観音の眷属で、仁王、四天王のようななじみの深い尊格のほか、婆藪仙人（ばすせんにん）、摩和羅女など、他ではあまり見かけない像も含む。痩せ衰えた老人の姿をリアルに表した婆藪仙人像は鎌倉彫刻の代表作として知られている。<br /><br />]]></description>
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         <pubDate>Wed, 13 Jun 2007 20:03:13 +0900</pubDate>
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         <title>東寺</title>
         <description><![CDATA[東寺地図<br /><br />
<iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=34.981269&ln=135.74773&z=0&k=1" width="500px" height="500px"></iframe><br /><br />
<a href="http://xn--1lqp7dk8g7gq08djl1czbcr4w.oxrz.com/image/touzi.kmz">グーグルアース東寺kmzファイルをダウンロード</a><br /><br />
Flickrで東寺観光
<div align="center"><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/hyougushi/368052202/"><img alt="東寺" src="http://farm1.static.flickr.com/152/368052202_a40f9a75fd_m.jpg" /></a><br />

<a href="http://www.flickr.com/photos/mshades/113639145/"><img　alt="東寺" src="http://farm1.static.flickr.com/34/113639145_13de1fb225_m.jpg" /></a><br />

<a href="http://www.flickr.com/photos/wilhelmja/342179910/"><img alt="東寺" src="http://farm1.static.flickr.com/154/342179910_f1739906cd_m.jpg" /></a></div>


<br />東寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br /><br />
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」（さいじ）という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。

<br />中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂（じきどう）が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。

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         <pubDate>Tue, 12 Jun 2007 04:43:05 +0900</pubDate>
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